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ずっとなりたかった映画監督

 

小学生の高学年の頃、漠然と映画監督になりたいと思った。その理由は定かではない。それでも漠然とそんな夢を描き、当時はやり始めた吉本新喜劇を見ては笑い転げ、内容などわかるはずも無い横溝正史シリーズ、刑事ドラマの走りだった「太陽にほえろ」を観ては、お金持ちの友人が持っていた『デンスケ』?(という名前だったか)高級なソニーのラジカセで足音やセリフを録音しては楽しんでいた。

 

そして中学・高校と吹奏楽部に所属していた私は卒業後もOBとして定期演奏会(サマコンと呼ばれていた)のポップスステージの第三部の指揮者をするようになった。時はあのマイケルジャクソンが「スリラー」を出し、クインシージョーンズとタッグを組むことで大きく姿を変えた頃。当時、吹奏楽の楽譜と言えば『ミュージックエイト』という会社が出している楽譜が主流で、自分には物足りなかった。クインシージョーンズの音楽に憧れた私は鳥栖高校吹奏楽部ではなく、新しい吹奏楽の形を模索して『TOSUKO CREATIVE BRASS ORCHESTRA』と勝手に呼び名を作り、それまでの吹奏楽の演奏会では考えられなかった客席に向けた照明やドライアイスを使った演出、そしてエレキギター、エレキベース、シンセサイザー、シンセドラム、エレクトリックピアノを吹奏楽に入れ、そのための楽曲アレンジをするようになった。

 

塩村芙美華との出会い

 

1984年、24歳の時、付き合い始めた私と彼女。彼女と出会ったのはOBとして指揮やアレンジをするようになった頃だった。そして彼女が短大に行き始めた夏から付き合うようになった。彼女が短大を卒業するクリスマスイブに、なけなしのお金で60回ローンを組んで婚約指輪を買ってプロポーズした。しかしその翌日のクリスマスの日に突然訪れた別れ。詳しい内容な映画をご覧ください(笑)。

MV制作

吹奏楽部の指揮や編曲をするうちに、アルバイト代・給料のほとんどを注ぎ込み、きちんとしたPAで楽器ごとにマイクを立て、多チャンネルで演奏会をPA録音するというプロの真似事も始めた。それでも飽き足らず、映画監督熱が高まり、今度は少しだけ広まっていたビデオカメラで舞台の裏や今で言えばメイキング動画と本番の映像を組み合わせたMVを作り始めた。その中で唯一残っているのが第19回サマコンの映像。

2003年

そしてその時が来た。2003年3月17日12時09分。唯一の私の理解者だった母親が急性蜘蛛膜下出血で他界した。芙美華と別れ、大きく軌道を外れた私の人生。一度目の結婚に失敗し、母親もそのことで悩ませ続けた。息子を保育園に送り、当時勤めていた出版社に出社する途中で一台の救急車とすれ違った。そしてそのすぐ後、私の携帯電話が鳴った。父親からだ。「すぐに病院に来てくれ」と。会社の前の道に車をとめ泣き崩れた。仮通夜、通夜、葬儀と三日三晩泣き通した。

小説との出会い

母親の49日が終わった日、父親に勘当を言い渡され、鳥栖・久留米には近づくことを禁止された。佐賀市で一人暮らししながら、身内もお金も信用も全てを失くした私は佐賀のアパートで細々と生きていた。電気や水道、ガスが止められることは日常茶飯事。生きる意味がわからなくなっていた。その頃、流行り出していた「魔法の図書館」というラノベサイトの存在を知り、自分の思いを小説にし始めた。

「ラジオの中の花嫁」

結局、今までに40タイトル近くの小説を書いた。その中の一つがほぼほぼ実話の「ラジオの中の花嫁」。そしていつかは映画監督になって自分の世界観を映像にしたいと思った。その最初はやはりこの作品が良かった。良くも悪くもこの思いを強くしてくれた小説だったのだから。下の写真は彼女と別れた翌年、英語が話せるようになりたくて留学したシアトルにいた頃、友人たちとカナダのバンクーバーに旅行した時のもの。多分、28歳になった頃だった。

私が作りたいドラマ

​最近の商業映画やテレビドラマのラブストーリーは、漫画原作のZ世代を対象としたものばかりで、ある意味、至極当然なことではあるが、40代以降の壮年、老年と言われる自分たち世代が感情移入できるラブストーリーは全然無いと思っていて(たまに見かけるがそれは純粋な恋愛ではない他の要素が入り込んでくることが多い)自分たち世代でも純粋に楽しめるラブストーリーが作りたかった。まだまだ未知数でしか無いのだが、一つずつ形にしていこうと思っている。

プロジェクトマネージャー

KATSUKI MIYAHARA

ミルキーウェイ・フィルム

所在地

〒841-0004 佐賀県鳥栖市神辺町1440

メール

katsukism@icloud.com

BD

1960.2.21

「ラジオの中の花嫁」のリアルの翌年、仕事を半年間、休み、アメリカのシアトルとロサンゼルスに語学留学した際の独立記念日の連休(日本でいえばゴールデンウイークみたいな)中に現地で知り合った友人三人とカナダのバンクーバーとビクトリアに旅行した時のもの。当時、27歳。

簡単な自己紹介

1978 佐賀県立鳥栖高校卒業

1979 西南学院大学に入学

1983 西南学院大学を卒業・鳥栖市内の学習塾に英語講師として就職

2023 鳥栖にて映像制作会社ミルキーウェイフィルムを設立し、初めての映画「ラジオの中の花嫁」を制作

​中学・高校と吹奏楽部にてSAXを担当し、高校卒業後は吹奏楽部のOBとして後輩と共にサマコン(定期演奏会)をプロデュース・楽曲のアレンジ、指揮を担当しMV制作を始める。自身のバンドではドラムを担当。

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